自由に楽しく分析して生きる道

超ポジティブな思想哲学:海外目線をからめてオチのある話を書きます。

知らないうちに与えられたトラウマとその克服

私は、一時期、食事中に目の前を遮る手に異常な拒絶感があった。


家族でする食事で、醤油が手をのばす位置にあれば、無遠慮に手を伸ばして、それをとる。わざわざ、お醤油とって。なんて、言わなかった。


ま、親の教育がよくないよね。とか、小さいからって、もっと社交性とか食事のマナー教えないとね。なんて、話は当然にあって、お里が知れるわね。という内容でもある。。。。(汗)


我が家は、しつけに厳しくない家だったから、別に肘をついて、ご飯を食べていても、母に軽く言われるのがせいぜいで、怒鳴られることも、食卓を追い出されることもなかった。


ところが、ある日、親戚とごはんを食べていた時に、無遠慮に手を伸ばして、とった私の行為に、お里のよいおじがキレた。なんと言って怒られたかは、もう覚えていないけれど、とにかく、ひどく怒られたこと、自尊心を傷つけられたことだけは間違いなかった。


その時は、その時で、傷ついたかもしれないけれど、表面は、かさぶたになって、何事もなく、時間がたった。怒られた傷は癒えたと思ったのが、間違いだった。


つまり、食事中に目の前を遮る手に対して異常に腹がたち、兄弟の行為に対して、怒鳴るようになった。怒鳴ったところで、所詮兄弟。。。もちろん繰り返し同じことをするし、こっちも、腹立たしい行為をされて、キレつづける。


ある日、みかねた母親が一言、


あなた、気にし過ぎよ。いくら、おじさんに注意されたからって、そんなに目の敵みたいに気にしないの!!


目からウロコ。


気づかなかった。トラウマだったのか!


私が悪いと思っていなかった行為を咎められ、自尊心を傷つけられ、それを遠慮なく、目の前で行う兄弟に対して、それを咎められないのは、不公平だと無意識で感じ、そんなのずるいから、代わりに私が兄弟を叱ってあげているの。という感情だったと思う。(もっとも、当時トラウマなんて言葉知らなかったと思うから、今、勝手に幼い私の感情を意訳して書いているだけですが(笑))


よく、トラウマや過去には向き合わないと前には進めないという話があるけれど、まさに、その超極小バージョンが、この体験だと思う。


なぜ、その行為に苛立ちを感じるのか、わかって、理由がわかれば、同じ苛立ちを覚えることはない。それ以後、目の前に手が伸びてきても、食べているのに、うるさいな。という感情で収まるようになった。


私の中では、無意識の仕返しが行われていた。もちろん、開けてみれば、仕返しなのだけど、気づかないままだったら、正当化して、悪いことを変わりに罰してあげている。くらいに変換されていたかもしれない(それも無意識下で)。いじめや虐待が知らないうちに、トラウマになって、無意識下で引き継がれていくのがわかる気がする。だって、無意識だから止められない。止め方を知らない。


自分と向き合う。なぜ、その行為が不快なのか。いつからか、紐解いて根源にたどり着ければ、恐怖や苛立ちが引いていくかもしれない。わかれば、わからないときほど怖くない。