自由に楽しく分析して生きる道

超ポジティブな思想哲学:海外目線をからめてオチのある話を書きます。

好きだけど、似合わないものは選ばない

確かに、好きなものや気に入ったものを手に入れたいのは山々だけど、人間には向き不向きがあって、絶対的に似合わないものも存在する。


以前見かけた大きな格子の柄のコートがとても可愛かったので、すごく欲しかった。でも、着てみると、大柄のパターンは小柄の私には滑稽だ。とても似合わない。だから、すごく欲しかったけれど、あきらめた。


我が家は、オシャレ大好き一家で、私が今でも胸に刻む教えは、ファッションに関するものが多い。

  1. おチビさんは大柄は着るな
  2. 柄は一点まで、柄にある色を組み合わせるのが失敗しない
  3. 肌の色がきれいなうちはくすんだ色を着ろ

などなど。


例えば、2は相当な上級者ならば、無視していい。以前のドラマに、「おせん」という番組があったけれど、そこで蒼井優が来ていた着物は柄に柄の組み合わせ。でも、メッチャメチャセンスいい。あの組み合わせは決して素人には真似できないと思うから、私は今でもそのスタイリストを尊敬している。


3は私の子供の頃の負の思い出 笑。やっぱね、女の子ですから、ピンクを着たかったわけです。でも、両親が選ぶのは、必ず、カーキーにモスグリーン、白黒かネイビー。。。そして決り文句


「ピンクはおばあちゃんになってから着なさい」
「。。。」


今になって、子供の頃の写真を見ると、私の顔立ちも含めて、ピンクでなくて正解なのは明白で、そんな結果が伴うので、今になってピンクを着るような反動がないのは、幸いでした。さて、数十年後、80歳?90歳になれたとして、ピンクを着たくなるのかは不明ですけれど、その時の楽しみにとっておくことにします。

好きなものに囲まれて生きる

友人が、近藤麻理恵のお片付けのファンで、彼いわく、お片付けの魔法は、そもそも収納云々の話ではなく、人生のコンサルティングにつながるらしい。


つまり、トキメキを覚えないものを捨てて、トキメクものだけを手元においておくことこそが、正しい選択の方法である。というようなことを言っていた。


彼女の著書は読んだことはないし、私がこれから書くことと同じことかどうかは不明だけれど、おそらく、言わんとしていることは似たようなことではないかと思う。


私は、買い物の基準に、テンションが上がかどうかをおいている。すでに数十年を生きてきている今、新しく手に入れるものは、基本的にすでに一度手に入れたことがあるものがほとんどだから、好きな傾向はたいていわかっているし、モノの溢れた時代だから、よほどのことがない限り、選択権は自分にある。


例えば、アメリカに来て、手に入れた車は、一度目は学生時代、今回は二度目。私は、シングルタスクなので、マルチタスクが要求される車の運転は、最大苦手なことのひとつで、車こそ機能性だったり、乗りやすさだったり、目的やハイテク度で選ぶことが必要なのかもしれなかった。


けれど、全部無視して、試乗して一番テンションが上った車を買った。


何買ったかって、15年落ちのオープンのスポーツカーを買いました。


車高が低いので、視界が悪く、マニアックにハンドルは重いし、ガソリンはハイオク、リッター8キロしか走らない。バックモニタもガイドも何もついてない。故障リスクも高い。でも、エンジンの音は素敵に響き、加速は抜群、重厚な内装に流線型のフォルムが魅惑的。そして何より、コンバーチブルが好き。本当に走ってて風が気持ちがいい。


社交パーティが嫌いなのに、カクテルドレスを買ってしまい、普段着にしているみたいな感覚です。


車庫入れや普段使いの使い勝手の悪さに辟易としながらも、駐車場に行って、自分の車を目にして、乗車して走行性を感じるたびに、テンションが上がることを考えると、人生で車を所有する機会なんてめったに無いし、あーやっぱりこの車でよかった。と思い直します。


おしゃれをするってことは、楽じゃない。ハイヒールは痛いし、ネックレスは重いし、化粧には時間もお金もかかるし。とぼやく人をたまに見かけますが、まさに、その通り、美しく生きるってこととは、必ずしも、機能性や快適さと共存するものではない。(もちろん、共存するならばそれに越したことはないけれど)そうでない場合に何を優先させるのか。がモノ選びの醍醐味かと。


そんなときに、選択の判断基準になり得るのが、そのものが好きかどうか。妥協せずに好きかどうか。好きならば、ちょっとくらい難癖があっても許すよね。だってめっちゃテンション上がりますもの。いいでしょ。これ。って自慢したくなるくらい好きなもの。


最近は、必要不可欠な急ぎでない限り、たいていこんな基準でものを選んでいます。

親の七光りは本人の能力?

自分の能力について考えるときに、まず思い浮かぶのが、脳みそや運動神経の良さ。


頭がいいとか、悪いとか、それがどちらであっても、それを本人の能力であることを疑う人はまずいない。運動神経もそうだろうと思う。動体視力のよさ、脚力、柔軟性、能力がなんであっても、能力の良し悪しは本人のものだ。


その能力が努力によるものか、生まれついて持った天才的なものなのか、双方なのかはおいておいて、持っているものを実力じゃない。と疑う人はいない。


では、その人の美貌は?容姿は?手足が長い、色白色黒、それもまあまあ、能力というか、実力というか、そういうもののうちに数えられる方が多いと思う。


環境はどうだろうか、お金持ちだったり、貧乏だったり、家族構成や親戚関係、育った場所などなど、それは、本人の持って生まれた能力のうちなのか?
この辺りから、賛否両論、いろいろな意見が出てくると思う。


ましてや、親の七光りは、基本的に実力がないのに活躍している人に対する悪口の代名詞であるから、本人の能力外の象徴であるのではないかと思う。


では、性格や興味はどうだろうか、例えば、頭がいいとして、それを伸ばす集中力や忍耐力がなかったとしたら、宝の持ち腐れ。また、興味がなければ、伸ばすことすら思いつかない。


ただし、環境はものをいう。いくら興味がなくても、親の教育方針で、いろいろな機会を与えられ、後々に選択を迫られたときに、間に合ったとか、必要なものを持っていたとか、そういうことはあると思う。


ある時、電車に乗っていると、女子高生の会話が耳に入った。


私さ、けっこう頭いいんだけど、努力できないいだよね。だから、受験はあきらめてるの。


早熟だと思った。ちゃんと自分を理解していて、それを許容している。私は似たようなことを20代で思ったけど、高校生当時はそんなふうに考えなかった。もし、昔からそんなふうに考えられていたら、また人生違ったのかなとか、人をもっと羨まずにすんだのかなとも思う。


私は、親の七光りは本人の能力の一つだと思う。お金持ちの家に生まれたことや、両親の愛情を受けて育つ環境やそれによって満たされていることも全部ひっくるめて、与えられたものの多さも、性格も、興味も、環境も、全部本人の力に数えていいと思っている。


努力できるできないも能力のうちだとすれば、環境も生まれ持ってきたものという意味では本人の一部だと思う。”ずるい”という言葉は、頭の良さには使われないのに、お金持ちの子供に生まれたことには使われる。でも、それって、本人には選べないって意味では頭の良さと変わりないよね。と思う。頭の良さだって、親の遺伝子のおかげだし、お金持ちって環境だって親のおかげって意味ではさして変わらないのに、”ずるい”ことになってしまうのはちょっと違うなあと。


ずるいという感情は相当にネガティブだと思う。だから、みんな本人の能力に数えて、全部所与のものでなにもずるくないと思うことにした。