自由に楽しく分析して生きる道

超ポジティブな思想哲学:海外目線をからめてオチのある話を書きます。

親の七光りは本人の能力?

自分の能力について考えるときに、まず思い浮かぶのが、脳みそや運動神経の良さ。


頭がいいとか、悪いとか、それがどちらであっても、それを本人の能力であることを疑う人はまずいない。運動神経もそうだろうと思う。動体視力のよさ、脚力、柔軟性、能力がなんであっても、能力の良し悪しは本人のものだ。


その能力が努力によるものか、生まれついて持った天才的なものなのか、双方なのかはおいておいて、持っているものを実力じゃない。と疑う人はいない。


では、その人の美貌は?容姿は?手足が長い、色白色黒、それもまあまあ、能力というか、実力というか、そういうもののうちに数えられる方が多いと思う。


環境はどうだろうか、お金持ちだったり、貧乏だったり、家族構成や親戚関係、育った場所などなど、それは、本人の持って生まれた能力のうちなのか?
この辺りから、賛否両論、いろいろな意見が出てくると思う。


ましてや、親の七光りは、基本的に実力がないのに活躍している人に対する悪口の代名詞であるから、本人の能力外の象徴であるのではないかと思う。


では、性格や興味はどうだろうか、例えば、頭がいいとして、それを伸ばす集中力や忍耐力がなかったとしたら、宝の持ち腐れ。また、興味がなければ、伸ばすことすら思いつかない。


ただし、環境はものをいう。いくら興味がなくても、親の教育方針で、いろいろな機会を与えられ、後々に選択を迫られたときに、間に合ったとか、必要なものを持っていたとか、そういうことはあると思う。


ある時、電車に乗っていると、女子高生の会話が耳に入った。


私さ、けっこう頭いいんだけど、努力できないいだよね。だから、受験はあきらめてるの。


早熟だと思った。ちゃんと自分を理解していて、それを許容している。私は似たようなことを20代で思ったけど、高校生当時はそんなふうに考えなかった。もし、昔からそんなふうに考えられていたら、また人生違ったのかなとか、人をもっと羨まずにすんだのかなとも思う。


私は、親の七光りは本人の能力の一つだと思う。お金持ちの家に生まれたことや、両親の愛情を受けて育つ環境やそれによって満たされていることも全部ひっくるめて、与えられたものの多さも、性格も、興味も、環境も、全部本人の力に数えていいと思っている。


努力できるできないも能力のうちだとすれば、環境も生まれ持ってきたものという意味では本人の一部だと思う。”ずるい”という言葉は、頭の良さには使われないのに、お金持ちの子供に生まれたことには使われる。でも、それって、本人には選べないって意味では頭の良さと変わりないよね。と思う。頭の良さだって、親の遺伝子のおかげだし、お金持ちって環境だって親のおかげって意味ではさして変わらないのに、”ずるい”ことになってしまうのはちょっと違うなあと。


ずるいという感情は相当にネガティブだと思う。だから、みんな本人の能力に数えて、全部所与のものでなにもずるくないと思うことにした。