自由に楽しく分析して生きる道

超ポジティブな思想哲学:海外目線をからめてオチのある話を書きます。

現代社会で奪われた家事労働の意味

手間ひまかけるとその分、愛着がわく。
それが、負の感情であろうと、正の感情であろうと、情が深くなると思う。


例えば、着物を縫うのが奥さんの仕事の一つだった昔、自分の仕立てた着物を着る家族を見るのは、思い入れが深かったと思う。


今は、既製品の服がほとんどなので、奥さんの家事労働に洋裁はない。ただ、自分の選んだ服を家族が着ているのは、家族が自分で選んだ服を着ているのを見るよりも、少し、思い入れがある


私は、母に、いいね。と言われた服を譲ったことがある。母がその服を着ているのを見るたびに少し嬉しかった。それは、ただ、私があげただけのものだけれど、私が手間ひまかけて、縫い上げたものだったとしたら、もっと嬉しいだろうと思う。


つまり、家事労働は、その労働により、触れているものと、愛着が相関関係にある気がする。ただし、それを感じるだけの余裕がある必要はある。


例えば、今は、洗濯機にすべて放り込んで終わりだけれど、手洗いしていた時代、洗濯物を手に取りながら、多分、その服を着た家族のことを考えたと思う。そして、ひとつひとつの洗い物に対して、なぜ、その汚れがついたのか、ちっとも汚れていないのか、などに思いを馳せたと思う。


めんどくさい、時間がかかる、というのは、そのまま、感情の深さにもつながる。めんどくさいほどに、そのことについて考える時間が生まれる。


苦手や嫌いなことも多い。洗濯が苦手だった人にとって、洗濯機は、最高にすばらしいものに違いない。今まで、洗うたびに、汚してくる家族に、自分のかけた手間を思い、腹を立てていたこともあるかもしれないけれど、洗濯機と乾燥機があれば、さして腹も立たないかもしれない。


ボタンを押して、待てば終わり、という中で、違うことを考える時間はできるし、その間のエンターテインメントによる娯楽や楽しみは増えるけれど、家事労働から直接得られる面白さ(考える時間)は減少したのだと思う。ボタンを押すだけなのと、手洗いでは、工夫できる余地も大きく違う。


つまり、得意であろうと、苦手であろうと、時間のかかる家事労働から開放されたと同時に、そのかけた手間から生まれる感情からも開放されている。そして、その開放により、持て余された時間に次なる思考を求める。家事労働の自動化により醍醐味からも開放されてるのかもなと思うと、自動化によって、家事がつまらなくなったことはちょっともったいないなあとも思う。私は時々、あえて手作業をして家事を楽しむ。